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夜空の星

日々思ったことを徒然と。管理人はただのオタクです。漫画とアニメと時々小説。

「擬日常」というタームで『この世界の片隅に』の一端を捉えてみる。

 

 昨日『この世界の片隅に』を観た。圧倒された。観賞後、すぐには言語化できない感動を味わったのは久々だった気がする。一日かけてゆっくりと消化し、ようやく何かしらの言葉を紡げる状態になったので思い浮かんだことを少し書きたいと思う。

 思考のとっかかりになったのは、森川嘉一郎氏の一連のツイートと小説トリッパー2016年夏季号に掲載された川喜田陽氏による「擬日常論」である。以下、引用。

川喜田陽「擬日常論」

花と奥たん』と『デデデデ(筆者補:デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション)』に共通するのは、震災の影響を感じさせながらも、非日常を描くだけでも単なる日常を描くだけでもなく、非日常がおとずれた後につづく日常、言うなれば日常の皮を被った非日常を描いている点である。本稿ではそれをさしあたり――擬似的な日常性という意味で――「擬日常」と呼んでみたい。なぜこのような言葉が必要か。それは「日常と非日常」という既存の構図で社会を捉えることに限界があると考えるからだ。「擬日常」の悲劇はこれまでの枠組みでは語ることが難しい。(P145)

  両者はいずれも「震災」が引き起こした物語/表現の変容について言及している。厳密にいえば、『この世界の片隅に』の原作は2006年から2009年にかけて描かれたもので、震災の前だ。しかしながら、劇場版アニメーションの企画は震災後に動き始め、制作から公開に至るまでの時期(つまりは2016年現在)は、否応なくそれを意識させる。同様にして、本作は「戦時下の呉や広島に生きた一人の女性の生活」を描いたものだが、2016年に観賞する私たち(とりわけ戦争を知らない若い世代)にとって、それは「震災」を強く意識させられる作品になっている。

 本作の特徴は、「戦時下に生きた一人の女性」の日常が丹念に描かれていくという点。生活様式は違えど、私たちと同じようにすずもあの時代を精一杯生きている。私たちとすずの日常に隔たりは感じられない。しかしながら、厳然とそこに生じてしまう大きな分断は、戦争という非日常だ。私たちは戦時下を生きていない。1994年生まれの筆者なぞ、終戦から約50年もの隔たりがある。私たちは戦争を“直接”体験していない。しかし、私たちは戦争を知っている。メディアを通して私たちは戦争についての知識を誰もが共有している。戦争は悲惨で、残虐で、恐ろしいもの。そのような負の印象を容易に想像できてしまうほどには、戦争を知っている。

 しかし本当にそうだろうか?

 私たちが詳しく知っている戦争というのは、すずが生きていたあの時代の日常ではなく、メディアを通して語られる戦争の非日常的側面に過ぎないのではないか。

 この問題は、2016年3月18日に米沢嘉博記念図書館で行われた吉村和真宮本大人トークイベント:「僕たちの好きな「戦争マンガ」」でも論点になった(筆者もここでの話を聞いて問題意識を持った)。

www.meiji.ac.jp

 具体的には、戦後生まれの作家が戦争を描くとき、どれだけ精緻に下調べをしても、戦争を直接体験していないが故に、「本当の」戦争は描くことができない、というものだ。私たちは必然的に、メディアを通してしか戦争を知ることはできない。このことに強い意識を向けていたのが、他ならぬ『この世界の片隅に』の作者であるこうの史代だ。それがコミックス巻末に書かれている「間違っていたなら教えて下さい 今のうちに」という作者の言葉に表れている。本作は戦争に対して非常に誠実であろうとしている。

 さて、以上を踏まえて冒頭の引用に話を繋げてみる。繰り返しになるが、『この世界の片隅に』は「戦時下の呉や広島に生きた一人の女性」すずの日常が主に描かれていく。しかし、それは単なる日常ではなく、戦争という非日常を裏側に内包した日常――川喜田氏の言葉を借りれば擬日常――だ。私が今まで触れてきた戦争(とりわけ太平洋戦争)を扱った作品は、いずれも戦争の悲惨さ、残虐性、抗いようのない暴力といった非日常の側面を際立たせて描かれたものが大多数だったように思う。その状況の特異性故に、戦争は恐ろしいもの、二度と起こしてはならないもの、というメッセージを幼いころから受け取り続けてきた。しかし、そこから得られる理解は、戦争=負の事象という概観が主である。漠然と戦争は良くないものと思うことはできても、戦時下に生きていた人々の気持ちは想像し難い。戦争とは圧倒的な非日常であり、そこに日常が介在する余地はない。

 このような伝聞では結局のところ、戦争が遠い過去の歴史としてしか想像することはできない。けれども、私は『この世界の片隅に』に圧倒され、共感し、衝撃を受けた。それは、すずの生きる擬日常が2016年を生きる私の日常とパラレルに認識、想像、共感できたからである。戦争と震災を安易に直結させるのは良くないが、それでも、本作で描かれるすずの生活は、震災を経験した後の私の生活と、どこか感応する部分がある(と想像してしまう)。戦時下であろうともすずは恋をする。美味しいご飯を食べるために工夫を凝らす。状況は違えども、それは現代に生きる私たちと何ら変わりのない心の機微だ。そのような描き方で以て初めて、私は戦争を想像できると感じる。

 この意味において、『この世界の片隅に』は戦災を扱った作品と言うだけでは全く言葉が足りないほどの何かを内包している。川喜田氏は論の末尾で、『花と奥たん』と『デデデデ』の両作は「見過ごされている存在の声」を伝えていると評していたが、この映画は、戦争という圧倒的な非日常に直面しながらも、正に「この世界の片隅に」生きたすずという一人の女性の、本来ならば見過ごされていたはずの存在の声を、擬日常という想像力によって、観賞した者に伝えている。それによって私たちは、名状し難い感動を覚えるのである。

 ここから、原作漫画と劇場版アニメの表現の違いが、どうこの映画に影響を及ぼしているかを考えるのも非常に面白いのだが、そうするといささか記事が長くなってしまうのと、筆者のモチベーションが底をついたので、割愛する。アニメは本当に素晴らしかったが、原作もかなり意欲的な表現が多々盛り込まれているので、未読の方は是非一読をお勧めします。

 

小説TRIPPER(トリッパー) 2016夏号 2016年 6/30 号 [雑誌]
 

 

この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)

この世界の片隅に(前編) (アクションコミックス)

 

 

この世界の片隅に(後編) (アクションコミックス)

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