夜空の星

日々思ったことを徒然と。管理人はただのオタクです。漫画とアニメと時々小説。

彼らがうたった“イエスタデイ”とは?

 最終2巻だけ積読していた『イエスタデイをうたって』をようやく読み終えた。読み始めたのが数年前、僕がまだ中高生だった頃のことである。学生というモラトリアムも残り1年となったこの時期に読み返せたのはジャストタイミングだったようにも思う。

 18年も続いた三角関係に終止符が打たれてしまった。

 僕の中の青春時代も一緒に終わってしまったような感覚だ。

 冬目景の漫画はとても好きで、ほぼすべての作品を読破しているが、その魅力を言葉で説明するのは難しい。漫画というのにはどことなく文学的で、小説というにはどこか軽薄さがつきまとう。それは単に内容が薄っぺらいのではなく、漫画特有のポップさが作品全体の雰囲気を明るくしているからだろう。

 さて、『イエスタデイをうたって』である。本作は超長期連載にもかかわらず、刊行は11巻に留まっている。結果として、作中の時間と現実時間でのズレがかなり生じているわけだが、違和感はさほど感じさせない。強いて言えば、ヒロインの喫煙飲酒シーンが後半になるにつれバッサリなくなってしまったことだが、物語の本筋にはあまり関係がない。

 この一貫した統一性は、メインキャラクターのリクオ、ハル、シナコに最後まで携帯電話を持たせなかったことが大きい。この問題に関しては作者もどこかで言及していたが、やはり「携帯」というガジェットのなさが2015年まで続いた本作に通底する「すれ違い」を強固にしている。

 そう、本作は「すれ違い」の物語だ。

 実に前時代的なテーマ性をこの漫画はメインに据えている。

 故に、今の中高生から同時代的な共感は得られないのかもしれない。現代の若い読者は「なぜ彼らはネットで連絡を取り合わないのだろう」と至極まっとうな感想を抱くだろう。

 しかし僕は、この漫画を今の中高生に読んでほしいと思う。それは本作のメインキャラがそれぞれ「孤独」を抱えているからだ。SNSによる「共感」が支配する現代においてこそ、「孤独」の体験は貴重だ。

 本作は「すれ違い」の物語であると書いた。では何がすれ違っているのだろう?

 ここでタイトルの意味について考えてみる。『イエスタデイをうたって』のタイトルはRCサクセションの曲から採られているそうだが、要するにイエスタデイ(昨日)とは過去だ。

 彼らは総じて過去にしがらみを持つ。リクオは大学時代の恋心に、シナコは失ってしまった幼馴染に、そしてハルは実父に。

 3人は自らの過去に懊悩しつつも、前へ進もうとする。

 しかし、真の意味で前進を続けていたのはハルだ。

 その好意に応えたリクオと、結局イエスタデイをうたい続けたシナコとロウがラストの対比に繋がっていく。この意味において、リクオとシナコはやはり一貫してすれ違っていた。

 18年かけて紆余曲折ありながらも既定路線の結末に落ち着いてしまったこの物語は、いったい何だったのだろうと結末を迎えて感じもしたが、タイトルとの符合を考えるに、実はシナコとロウの物語だったのかもしれない。そう気づいたとき、僕は妙な納得感を覚えた。

 よくよく考えてみると陳腐なメロドラマのようにも思える。けれども、僕はやはりこの漫画が好きらしい。ここで無理やり冬目景の漫画の魅力に話を繋げると、この作品の強さはサブキャラクターのエピソードの強度だ。作者が美大出身であることも起因しているのかもしれないが、初期のサブエピソードは現状や将来に対する苦悩が色濃く描写されている。

 登場するキャラクターたちはポップに描かれているが、どこか「孤独」だ。その孤独さの筆致は漫画的というよりやはり文学的である。明確な記述をさけ、読者の解釈を誘う演出が冬目景漫画の魅力のひとつである。

 さて、だいぶ散発的な文章になってきた。まとめに入ろう。

 本作はどうしようもなく“イエスタデイ(昨日)=過去”の物語であり、モラトリアムが主軸になっている。若者たちは時にすれ違い、孤独に苦しむ。僕たちは悩みの中で日々を生きている。

 それでも明日は否応なく訪れるし、現状維持のままではいられない。

 変化はいつだって不可避である。

 そんな微温湯でありながらも苛烈なモラトリアムの青春を生きた若者たちの群像劇が、『イエスタデイをうたって』という漫画の核心であるように僕は思う。

 

イエスタデイをうたって (Vol.1) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)

イエスタデイをうたって (Vol.1) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)